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三角猫の巣窟

三角猫の巣窟

模倣について


2020年の東京オリンピックのロゴを巡ってデザイン業界のパクリエイターによる盗作問題が話題になった。私は昔ランサーズで企業ロゴデザインをしようかと考えたけれど、調べると応募者にアイデアだけ出させてデザインをパクるのが横行しているらしく、フリーランスでやっても割に合わないと思ったので結局やらなかった。パクリが横行するとクリエイターのやる気を削ぎ、その業界を目指す人もいなくなるのである。
模倣といってもいろいろ種類があり、模倣、著作権侵害、剽窃・盗作の違いもややこしいので、自分の思考を整理するために模倣について考えることにする。

◆人は模倣で成長する

学ぶということはまねるということだと言われている。人間はミラーニューロンがあるので、相手を見るだけで自分が行動しているかのように脳が反応して、相手の行動を理解する。子供の遊びは模倣が多くて、ままごとは大人の家庭生活の模倣だし、仮面ライダーごっこでヒーローになりきるのも模倣である。習字ではお手本となるきれいな書体を模倣してきれいな字を書けるようになる。サラリーマンのOJTにしても、先輩社員や上司の仕事のやりかたを模倣する。創業○十年の伝統ある料亭は先代の味を模倣して伝統を守っていく。日本の社会制度も西洋の民主主義の模倣によって作られて発展した。自分より優れたものを模倣することで学ぶことができるのだ。模倣はすばらしいではないか、みんなどんどん模倣しようではないか。
というのは芸術性が必要とされない分野での一般論だけれど、芸術における模倣となるとちょっと話が違ってきて、単に模倣すればよいというものではなくなる。

◆芸術家の成長過程で模倣は必然的にあるけれど、独自性がなければ芸術としての価値は乏しい

芸術の根源は自然の模倣である。自然そのものが美であり、自然や自然を作った神を絵や歌や踊りで再現しようとすることで芸術は生まれた。その後社会の進歩とともに芸術も進歩して、王や貴族を楽しませるための職業芸術家となって師弟間で技術を伝承するようになり、弟子が師匠を模倣するようになる。
日本ではある分野の一流の師匠に弟子がついて教えを乞い、守破離の段階を踏んで、師匠をお手本にして師匠の教えを守って学んだ後、より良い型を探して型破りをして、型から離れて自身の独自性を確立するという修行形態がとられた。並みの才能なら師匠の教えを守るだけで精一杯で、師匠に追いつければたいしたものだけれど、それでも師匠以下の存在でしかない。師匠の型をさらに改良した型破りができるようになれば独自性があり、芸術家としての価値があるといえる。「型破り」は芸術ではほめ言葉であり、型破りしてきた芸術家たちによって芸術は進歩してきた。歌舞伎、花道、茶道、落語などではしばしば流派の対立が起きるけれど、どの流派の作法が正しいというわけでもなく、目指す芸術性が違うというだけで、本家と分家で型が違うから芸術性が劣るというわけでもない。
日本人は勤勉に教えを守ることには長けているけれど、周囲との調和を重視する文化もあいまって個人の独自性が乏しい。職人なら伝統を守るだけでいいけれど、芸術家であるためには独自性と創造性が不可欠なのだ。しかし独自性と創造性は長い修行を積んで、人生経験によって培われた思想哲学や技法の追求から生まれてくるもので、独自性を出せといわれてはいどうぞとすぐ出せるものではない。エキセントリックになることを型破りだというような誤解がよくあって、篠原ともえやきゃりーぱみゅぱみゅのような派手な人がしばしば出てくるけれど、それはエキセントリックという型にはまったステレオタイプで、芸術における型破りではない。
ゲームをやって育った人が作るゲームはつまらない、漫画を読んで育った人が描く漫画はつまらないという話はよく聞く。ゲームや漫画ばかりに没頭しすぎたせいで独自の作品を作れるほどの人生経験がなく、先行作品の模倣しかできなくなってしまう。漫画の編集者はそういう漫画家志望者には小説を読んだり映画を見たりして視野を広げるようにアドバイスするらしい。音楽の分野でも親に無理やり楽器を習わせられて音大に行くものの、機械のように楽譜を正確になぞるけれど、「表現」がまったくできずに演奏家としては大成しないような人がいるらしい。芸術は習えばできるようになるというものではない。それゆえに芸術家には才能と個性が必要で、独自性を持った芸術家は尊敬され、他人の真似しかできない芸術家にはたいして価値はないのだ。

◆芸術表現として使われる模倣と盗作

・オマージュ
オマージュは尊敬、敬意を意味し、先行作品の有名なシーンを一部分だけ真似ることが多い。ヒップホップでいうところのリスペクト。ここはあの名作のあの場面のオマージュなんだよと伝わらないと意味がないので、わかりやすい形で模倣されるものの、オマージュが作品に必要不可欠というわけでもなく、オマージュしたからといって作品が面白くなるわけでもなく、むしろ作品の独自性が乏しい場合はオマージュに見せ場をとられてしまい、作者の自己満足で終わる危険もあるのでオマージュすればいいというものでもない。
映画『アンタッチャブル』は『戦艦ポチョムキン』で乳母車が階段を落ちる名シーンをオマージュしている。漫画『ジョジョの奇妙な冒険』は独自の表現ゆえにファンが多く、奇妙な名セリフやポーズはしばしば敬意を持って他の漫画家にも真似されるものの、ジョジョが奇妙すぎるせいかオマージュの場面が作品から浮いていることが多いので、そこにしびれて憧れるのが作者の独りよがりになりがちである。漫画『ゴールデンカムイ』はオマージュやパロディが満載で、病院に知らないおっさんがいて「誰だお前!!」「あっちへ行けっ」というギャグも古い漫画のギャグが元ネタらしい。

・パスティーシュ
パスティーシュは作風を真似ること。誰の真似もせずにいきなり独自の作品を作れる人というのはほとんどいないので、たいていは「ああいうものをつくりたいな」と先行作品を手本にして作風を真似ることで自身の技法として取り入れて上達していく。明治時代は日本の作家も画家も欧米を真似て技術を取り入れて、和洋折衷の独自の芸術を生み出してきた。小説の文体や絵の画風に著作権はないので、作風を真似して技術を盗むことは著作権侵害にはならない。他の作家に真似される作家はそれだけ優れているということでもある。もし誰にも作風を真似されたくないという作家がいるとしたら、誰にも真似できないほどの超絶技巧を使わなければならない。
ジャンプ+で連載している中国人漫画家の第年秒の『群青のマグメル』の作風は冨樫義博の「HUNTER×HUNTER」のパスティーシュだろう。富樫の休載の穴を埋めるのには役に立つだろうけれど、まだ作者独自の面白さを出せているとまではいえない。
ドリヤス工場という漫画家は画風は水木しげるのパスティーシュで、ストーリーは他の漫画のパロディという二重の模倣をしている。水木しげるが描きそうにない「侵略!イカ娘」や「けいおん!」などの現代の漫画やアニメをパロディにして水木しげるのレトロな画風で描く違和感にドリヤス工場の独自の面白さがあるのだけれど、『有名すぎる文学作品をだいたい10ページくらいの漫画で読む。』で「人間失格」や「坊ちゃん」を水木しげる風に漫画化しても画風の違和感がなくなってパロディとしてはかなりつまらなくなっている。

・インスパイア
インスパイアは他の作品にインスピレーションを受けた創作。他の作品に刺激を受けて作品を作って切磋琢磨するのはよいものの、しばしばパクリの言い訳に使われることもある。和歌の本歌取のように、すぐれた詩を取り入れた上で自分の独自性を付け加えることで、技法の練習にもなるし、独自性を見つけるきっかけにもなる。たとえばSFで初めて宇宙旅行ネタが登場した際に、他の作家も刺激を受けて宇宙旅行ネタを書くような場合もインスパイアといえる。クリエイターがお互いにインスパイアしあうとブームが起きて、ロボット系とかセカイ系とか異世界転生系とかのジャンルとして定着する。
映画『マトリックス』はアニメ『攻殻機動隊』の演出方法にインスパイアされている。マトリックスと攻殻機動隊の比較動画を見ると類似点がわかりやすい。アニメの手法を実写映画でやるにはアニメとは別のCG技術が必要だろうし、そのための独自の努力もしているだろうから、アニメの演出のアイデアを模倣したとしても完全なパクリとまでは言い切れない部分もある。アニメは空想を形にしやすいために演出力では実写映画よりも優れていたものの、実写映画のCG技術がアニメに追いついて、実写でもアニメのような派手な演出ができるようになった。マトリックスのスタッフがただのアニメの真似で終わらず、アニメからインスパイアされて真似して覚えた演出方法で次回に独自の演出表現ができるようになれば、インスパイアが映画表現の進歩につながったといえる。

・コラージュ
コラージュは素材を切り貼りしたもので、元は美術の手法だけれど、パソコンで画像を加工するコラージュがいまは一般的である。有料で写真やイラストなどのコラージュ用の素材を使わせるビジネスもあるし、フリー素材として無償公開されている素材もある。コラージュの素材の著作権の許可云々を言い出すとコラージュの手法そのものが使えなくなってしまうので、アメリカではコラージュは芸術表現として著作権は大目にみられているらしい。日本では無断コラージュが著作権侵害になってしばしば問題になる。
ISISクソコラグランプリはコラージュの手法を使ってISISをパロディにして皮肉っている。ぼっさんという一般人もコラージュ素材としてしばしば使われている。日本だと単に画像を面白がるためにふざけてコラージュをする場合が多いけれど、外国だと政治家とかの権力者を貶めるためにコラージュをする。

・パロディ
パロディは原作をいじって皮肉ったりして、原作とはちがう文脈でネタを使うことで面白さを出す手法である。パロディの元となる作品が有名でいないとパロディとして成立しないので、誰でも知っている昔話、人気の作品、著名人がパロディの対象となる。例えば家庭教師のトライのCM『教えて!トライさん』は『アルプスの少女ハイジ』のパロディとして絵柄は古いままでセリフを変えたりオリジナルキャラを登場させたりしていて、日産のノートのCM『低燃費少女ハイジ』は『アルプスの少女ハイジ』のパロディとして絵柄もセリフも変えてパロディにしているけれど、元ネタの『アルプスの少女ハイジ』はたいていの日本人は知っているので、原作とのギャップが面白さになる一方で、原作のイメージを損ねることで原作が好きな人からは反感を持たれるリスクもある。著作権はグレーゾーンで、実在の人物をネタにする際にはしばしば問題を起こしている。音楽なら替え歌がパロディに相当するだろう。
パロディは過去から現代に至るあらゆる元ネタが使えるために、ネタ切れしにくい。世界観やキャラクターは流用できて自分で設定を作りこむ必要がないので、訴訟リスクさえ許容できればパロディは作品を作りやすい。週刊誌のギャグ漫画は作者がギャグを出し切ってネタ切れで終了することが多いものの、ジャンプで『銀魂』が14年も連載されているのはパロディに軸を置いているからだろう。登場人物は新選組のパロディだし、蓮舫やら野々村やら巷で話題のキーマンをその都度いじってギャグにすればネタ切れしない。『銀魂』は実在人物をパロディにするがゆえに訴訟リスクが多いものの、ギリギリを攻めることで話題づくりができている。フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』が22年続いた長寿番組になったのも、パロディのコーナーが多いがゆえにネタ切れしにくいのだろう。パロディという形で堂々と他局のアイデアをパクるがゆえに、それを批判するとお笑いがわからない野暮な人だということになるので、パクられた他局からの訴訟リスクが少ないがゆえにやりたい放題できたのだろう。パロディの仕方も様々あり、『銀魂』はコミカルでテンポがいいギャグパロディ、『サウスパーク』はブラックユーモアのパロディで、パロディの仕方に独自性があればパロディも独自の芸術表現といえる。

・二次創作、リメイク、翻案
二次創作は原作から派生したもので、主にアマチュアによる非公式な作品。漫画では原作のファンが勝手に続編やサイドストーリーを描いて売っている。音楽ではリミックスが二次創作に相当する。原作者の許可を取って二次創作するなら問題ないものの、アマチュアの二次創作は大抵無許可なので著作権の問題になる。
リメイクや翻案は小説を映画化する際に脚本に手が加えられたり、過去の名作を現代風に作り変えたり、作品を海外で売る際に現地人の好みに合うように変更したりする。アメリカ映画の『荒野の七人』は黒澤明の『七人の侍』が原案で、用心棒をするというストーリー展開は同じものの、舞台を開拓時代のメキシコにしてリメイクしている。許可を取ってリメイクするなら当然盗作にはならないものの、無断でリメイクすると盗作になる。

・盗作、剽窃
論文では引用元を明記せずに文章を丸々コピペする盗用が問題になっている。昔から大学生のモラルが低くて代筆やら先輩の論文使い回しやらがあったらしいけれど、手書きの時代はばれにくかったのがパソコンでコピペがしやすくなったと同時にコピペ検証もしやすくなり、社会問題というほどコピペが浸透して、博士論文レベルでも盗用が発覚するようになった。

小説では丸々コピペするということはなくて枝葉末節が改変されて剽窃されるので盗作はばれにくいものの、濫造されているライトノベルで盗作が目立つようになった。小説がノンフィクションから剽窃するパターンもある。同じジャンルやテーマから盗作したところで客層が同じなので、たいていはパクられ元の作者やファンが読んで盗作が判明して、回収されて絶版になる。

漫画やイラストでは他の作品をトレースしてパクるトレパクによる盗作が多発して問題視されている。そもそも絵というのは背景だのパースだのを描くのに非常に手間がかかる。漫画『つぐもも』の作者の浜田よしかづは背景を自分で3Dモデルで作っていて、3Dモデル自作体育館見開きの作業工程の動画が公開されているけれど、光の反射具合を考えて背景を作りこんで作品に手間をかけているのがわかる。その作画の手間を省くのがトレパクで、他の作品をトレースすれば自分で画面の構図を考えないで済む。それにストーリーの盗作がすぐに露見するのとは違ってトレパクでは何を参照してトレースしたのかがわかりにくくて盗作がばれにくいうえに手っ取り早く上手い絵が描けるのでトレパクする人が後をたたず、パクラレ元の作品が好きな第三者がトレパクを検証し始めてようやく露見する場合が多い。しかし他の作品の線をなぞるのがプロのやることかというと当然そうではないわけで、商業作品で盗作などしようものなら販売中止だの作品回収だの裁判だので広範囲で被害を受けるのでプロとして活動できる可能性はほとんどなくなる。『メガバカ』という漫画はデビュー作で全ページにトレパクがあるという快挙を成し遂げて、漫画史に残る剽窃例になった。漫画家の末次由紀はトレパクがばれて一時活動停止したのち反省して活動再開して『ちはやふる』がヒットしたけれど、これは例外といえるかもしれない。イラストレーターのゆのみPは有料素材を無断使用して問題になった。佐野研二郎がどこからか見つけてきた素材を無断拝借してポンポンと配置するのもゆのみPと同様のパターンの著作権侵害で、ネット住民が最前線でトレパク検証をしてきたノウハウがあるからこそ佐野研二郎のパクリも短期間で次々に判明したのだろう。

映画はストーリーや演出を盗んでも役者の演技の質までは盗みようがなく、盗作しようがしまいが役者の質が悪いとどうにもならない部分が大きいので邦画が海外の映画やドラマを盗作したところでほとんど話題にもならない。しかしアニメ映画となると役者の演技の問題がなくなるので、盗作で金儲けがやりやすくなる。ディズニー映画の『アトランティス:失われた帝国』は『ふしぎの海のナディア』の盗作だと私は思っている。今でこそ世界中にアニメファンは多いものの、昔はアニメというと子供と変態オタクしか見ないという扱いで日本のアニメは海外ではあまり知られていなかったので、ディズニーもばれないと踏んで堂々と盗作したのだろう。

音楽では似てる曲はわんさかあるけれど、音階やコードが限られていて偶然似ることもあるし、オマージュとインスパイアと盗作の区別がしにくい。さらにはサンプリングの許可をとっているのか無許可なのかという著作権関係は第三者にはわからないので、似ているからといって必ずしも盗作とは限らない。


・模倣した原作への敬意の順番のまとめ
オマージュ(超尊敬してるから真似する)>パスティーシュ(すごいお手本だから真似する)>インスパイア(よさそうだから真似する)>コラージュ(単なる素材として使う)>パロディ(真似してふざけて楽しむ)>二次創作(勝手に魔改造する)>盗作(真似してもばれなきゃオリジナル)


◆盗作の基準はどうなっているのか?

模倣と著作権侵害と盗作は若干違う話題で、模倣したとしても原作者の許可を得ていれば当然著作権侵害や盗作にはならず、パスティーシュのような芸術表現として認められている模倣の場合も著作権侵害や盗作にはならない。模倣が著作権侵害や盗作として問題になるのがインスパイア、コラージュ、パロディ、二次創作。インスパイアは他の作品の影響を受けて創作されるので、その影響部分がものすごく似ていれば著作権侵害や盗作になりうる。コラージュは写真素材の無断使用や音楽の無断サンプリングがしばしば著作権侵害の争いになる。パロディは著作権侵害の問題にはなるものの、原作を大幅に改変しているので盗作扱いされることはあまりない。アメリカは著作権に厳しいけれど、フェアユースの基準に該当すればパロディやコラージュは著作権侵害をしても認められるらしい。二次創作はたいてい原作者の許可を得ずに創作される著作権侵害だけれど、元ネタがはっきりしていてオリジナルとして主張されることはほとんどないので盗作扱いされることはあまりない。

日本では著作権侵害は申告罪なので、著作権保持者が著作権侵害を訴えて裁判で決着がついたり、証拠が出てこない限りは、第三者には剽窃か否かの判断はできない。似ているとしても改変されてしまうと証拠が出にくく、それゆえ実質的にはパクリでも、インスパイアとして言い逃れされる場合もある。
私の個人的な模倣と剽窃の判断基準としては、作者の労力に敬意を払わずにアイデアを横取りして、自分でほとんど労力をかけずに作品を作って金儲けするのが剽窃だと思っている。それに師匠以外の同業者の作風を無分別に模倣する人は創作の根底に一貫した哲学がないので、芸術家と呼ぶほどの芸術性はない。
アマチュアがプロを模倣するのは習作として許容されても、プロが同業者を模倣するのは芸術家のモラルに反する。しかしプロの盗作もかなり多く、例をあげるときりがなくなってしまう。もともと創作能力がないにもかかわらず芸術家の肩書きや賞賛がほしくて自作の底上げをするために盗作する人もいるし、楽して金儲けするために万引き感覚でポンポンと盗作する人もいるし、専業で作品を発表し続けてネタ切れして苦し紛れに盗作する人もいる。

模倣を許容する文化がある場合は模倣しているからといって著作権侵害として訴えられるというわけでもない。漫画の二次創作による同人誌をコミケで売ることが著作権侵害であるにもかかわらず大目に見られているのは、それが新人漫画家育成やグッズ市場拡大につながり、同人出身の漫画家も多いゆえに同人活動に理解があるからだ。ダンスだと振り付けに著作権はあるもののほとんど権利を主張されることはない。もし踊るたびに著作権使用料を請求されるなら、たまたま思いついた振り付けが誰かの著作権を侵害するかもしれず、自由に踊ることもままならなくなって、クラブで音楽を流しても誰も踊らなくなり、路上でダンスの練習をする人もいなくなり、ダンスの競技人口は減っただろうし、ダンスの質も劣化するだろう。ダンスは振付師が著作権に寛容だからこそニコニコ動画で素人がダンスを踊ってみた動画が流行ったり、ダンス好きな人が増えて世界各地のダンス大会で日本人ダンサーが優勝したりしているけれど、著作権にうるさい音楽業界が凋落しているのとは対照的だ。音楽ではコピーガードでCDの私的複製を禁止したり、著作権ヤクザとも呼ばれるジャスラックがやくざまがいの方法で著作権使用料を取り立てたことで、音楽離れが進んで音楽業界が沈んだ。原則として著作権は保護しなければならないけれど、業界が死んでしまっては意味がない。

TPPで著作権侵害が非親告罪になるという話もあるものの、ぎちぎちに著作権を守ったからといって芸術家が得するかというと必ずしもそうでもないので、その点は業界によって柔軟に対処するべきだろう。たとえばオープンソースのプログラミングの場合はソースコードを自由に改造してもらうことで利便性向上につながり、オープンソース自体の知名度やシェアも拡大することになる。あるいはレシピには著作権はないので人気の飲食店は他店に真似されないために材料や工程を非公開にしているけれど、そうしないやり方もあって、日清がチキンラーメンの特許を独占するよりも他社に特許技術を公開してインスタントラーメン市場を育てる道を選んだり、あるいは鈴廣が同業者にも惜しみなく知識や技術を教えて小田原蒲鉾を復興させたということを『カンブリア宮殿』で放送していたように、自社だけが知識や技術を独占して小さな市場で儲けるよりも市場を育てて大きな市場でシェアを取るほうが最終的な利益が増えるわけである。
プロが著作権を侵害するのは問題外だけれど、アマチュアがプロを模倣する二次創作は次世代のプロを育成してファンを拡大する土壌になっているので、二次創作による著作権侵害を大目に見ることでファンを拡大するビジネスのあり方があってもよいと思う。芸術家を目指したとしても誰もが師弟関係を築けるわけでもないので、アマチュアが好きな芸術家を師匠代わりに真似して二次創作するくらいは許容しないと裾野が広がらない。音楽業界のように高校生のコピーバンドが学園祭で演奏するのにもジャスラックが金をせびるようになると、よほどの金持ち以外は芸術を志そうとさえしなくなってしまう。

◆模倣する気がなくても偶然似ることもある

長大なクラシック音楽はテーマや楽器の多様性があるから偶然似るということはあまりないけれど、ポップミュージックでカラオケで歌いやすくてキャッチーな4分くらいの曲にしようとすると歌詞もメロディも似ることがある。
小説家はタイトルや主人公の名前がかぶらないようにネットで調べる程度のチェックはしているだろうけれど、何か創作するたびに世界中の作品の中で似ているアイデアがないことを証明することは物理的に不可能である。ミステリーは新しい犯罪トリックを書いたつもりでもネタがかぶることもあって、世界中のミステリーを全部読んでトリックがかぶらないようにするのは不可能なので、古典や話題作とトリックがかぶらない限りは作者の勉強不足とは言い切れない。たとえ私小説として自分の人生を書いたとしても、同じ時代を生きて似たような生活をしている人が大勢いて、他人の人生と似ることもある。
たまたま似てしまった場合に鬼の首をとったように盗作だ、アイデアをパクったと断罪してしまうと芸術家の創作意欲もなくなってしまう。誰でも思いつくような程度のアイデアしか出ない小粒な才能は業界に必要ないかというとそうでもなく、どんな偉大な芸術家でも下手糞な新人としてぼろくそに批評される修行時代があるので、多少の類似点は大目に見ないと才能の芽を摘んでしまうことになりかねない。模倣から抜け出して独自の作品を作ろうと試行錯誤している途中なのか、あるいは模倣に甘んじて楽して金儲けしているのかは、その作家を追っていけばおのずと判明する。最終的には価値のない猿真似の偽物は淘汰されて本当に価値があるものだけが残るので、一作だけ見て模倣だから価値がないとは判断せずに、作者がどういう芸術を目指していて何を表現しようとしているのかを見定める必要がある。

●まとめ

・人は模倣で成長する。
・芸術家は模倣の末に独自性を手に入れる。
・模倣をオリジナルと主張する盗作はよくない。自分の創作と模倣の区別がつかないのは芸術家失格。
・著作権侵害の二次創作が黙認されている業界もある。
・模倣は著作権的にグレーな部分があるけれど、ある程度大目にみるべき。
・偶然似てしまうのはしょうがない。

2018/12/14更新 三角猫
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(*‘ω‘ *)ニャー


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